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キム・ギドク『悪い男』の無尽蔵の魅力

キム・ギドク『悪い男』の無尽蔵の魅力

タイトルで言ったようにこれから展開される文章は多少のネタバレが含まれます。しかし、一つ一つのシーンや台詞をピックアップしようとも、もしくはあらすじを書こうともこの『悪い男』の魅力は語りつくせない、と言うよりも語りにくいのが本音です。なぜならこの作品は、理解し難い主人公の行動や登場人物たちの感情の変化で埋め尽くされているからです。ここでは「極端な解釈だ」という批判に恐れることなく、この魅力的な作品を語ります。

悪い男のハンギはほとんど話しません!表情で感情を語ります

『悪い男』は、台詞が極端に少ないことで知られているキム・ギドク監督の初期作品です。
この作品の主人公であるヤクザのハンギは台詞がほとんどありません。キャラクターの設定上、過去に喉を切られたことがあり上手く話すことが出来ないのです。喉には痛々しい傷跡が残っています。一言だけ台詞がありますが、それは物語の後半部分に登場します。

ハンギに楯突いた子分をボコボコに殴りながらほとんど出ない声を振り絞って叫びます。「やくざ風情が…愛なんて」というセリフはソナに恋した子分に向けて放たれた言葉ではあります。しかし、この言葉はハンギがハンギ自身に対して言っているに他なりません。自分の心に芽生えた一般の女性に対する愛や恋と言ったような感情を自ら抑えようとしているのです。ほとんど台詞の無い主人公が後半部分で叫ぶため、非常にインパクトのある効果的なシーンになっています。

物語の最初からほとんど無表情のハンギですが、ソナへの想いを募らせれば募らせるほどに表情が豊かになっていきます。切なさや悲しさを台詞なしで上手く表現出来ているのは役者と監督であるキム・ギドクの演出の素晴らしさでしょう。

物語の冒頭でいきなり他人の彼女の唇を奪うシーンを見れば、「コイツは悪い男だ」と誰もが思うでしょう。しかし、物語も後半に入って行くとヤクザで悪い男であるはずのハンギに感情移入出来てしまうのがこの作品の妙な魅力の一部分です。

ヒロインもいつしか悪い男に恋をしている!はたしてその理由は?

ストックホルム症候群という心理学用語があります。誘拐や監禁をされた被害者が犯人に特別な感情を抱くことを言います。特に加害者と被害者が男女である場合は恋愛として表面化することが多いのがこの症候群の特徴です。

ハンギは元々ソナに想いを抱いていますが、ソナはどのような経緯でハンギに想いを寄せるようになったのでしょう?
美術を愛する一般の女子学生だったソナはハンギの罠にハメられて一気に売春婦へと堕ちていきます。売春婦として生活していく中で自分を罠にハメたのはハンギだということを悟ります。その事を知ったソナは一時的に激怒しますが、既に売春婦になってしまっている以上その世界から這い出すことは不可能でした。

仕方なく売春宿で働き続けるソナに対して不器用ながら見守りながら時には直接お世話をするハンギの姿がとても愛らしく見えます。ソナは徐々にハンギに対して特別な感情を抱いていきます。ある時、ハンギの子分は敵対するヤクザを殺してしまいます。ハンギは殺人の罪を被り刑務所に入ります。これまでの犯罪歴も重なり死刑が宣告されてしまいます。ソナは死刑が宣告されたハンギに面会に行くのです。そして泣きながら叫びます。「私をこんなにめちゃくちゃにしたんだ。そこから出てこい」。

涙ながらに叫ぶソナはハンギを愛してしまっているのです。

愛の表現が屈折しすぎ!一周回って悪い男の純愛物語になっている

ハンギの愛の表現はあまりにも屈折しています。
彼氏とデートしている女性をいきなり抱きしめキスをする。想いを寄せる女性を強制的に売春宿で働かせる。さらに、売春宿で働く女性が客によって処女を喪失してしまうところをマジックミラー越しに覗く。処女を奪った客をバットで一方的に殴りつける。好きな女性と添い寝をする。添い寝をしているのにもかかわらず、胸を触ったりするものの「行為」には至らない。他の売春婦とは激しい行為に耽る。

これらの行動があまりにも不可解なのは愛の表現が性的な交わりを前提としているからではないでしょうか?
本気で好きになってしまった人を穢すような行為は決してできないという少年期の恋心を彷彿とさせます。もちろん、ハンギの感情はそこまで単純ではないでしょう。子分のセリフでキム・ギドクが語らせているように「好きな女を売春婦のままにしておけるか?」というのが一般的な考え方だと思われるからです。ハンギは好きな女性を売春婦として生活させ、その行為をマジックミラー越しに観察しているのです。

キム・ギドクの演出が光る!悪い男と普通の女性との距離は鏡一枚

キム・ギドクが演出している作品のほとんどは画の作り方が非常に芸術的であるというのが批評家たちの評価です。
『悪い男』はキム・ギドクの初期作品ですが批評家が認めるその表現力は随所に見られます。特にソナが働いている売春宿にマジックミラーがあるという設定は非常に効果的にハンギとソナの距離感を表現しています。ハンギ側からはよく見えているけどソナ側からは見えないという距離感です。最終的にはハンギが自分の存在を明かします。ソナからはただの鏡に見えていたものは実はマジックミラーだったということにこの時に気づきます。そして、ソナはこの鏡を灰皿で叩き割ります。
マジックミラーを叩き割った時に初めて、二人を隔てていた仕切りがなくなるのです。

これまで一方的だった関係が相互的な関係へと変化していきます。マジックミラーが取り払われることによってこういった抽象的な人間同士の関係さえも表現しているのです。

『悪い男』はキム・ギドクの深層なのか?演出家は自分の感情をさらけ出す

映画は演出家の性癖とか嗜癖の大公開であるとい場合が多い傾向にあります。鬼才・奇才という異名をほしいままにするキム・ギドクは自ら男性としての深層を主人公のハンギに投影させている部分が多いのでしょう。ハンギの行動は時に激しく暴力的で、時に切なく幼稚にも見えます。

この作品は男性の生まれ持った性癖や嗜癖を包み隠さぬことなく表現していることで多くの共感者を生んでいるのではないかと思います。ここまで捻じれていて、しかも痛々しいバイオレンスシーンが多い中、数々の映画賞を受賞しています。映画は観る人が「本当は気づいているけど何となく見て見ぬふりをしたい感情」を映像と人物の動きによって表現する媒体なのです。そして、その見て見ぬふりをしている自分の深層を見事に表現しているのがこの『悪い男』という作品なのです。

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