2014年の秋、シネマート新宿でジョン・フォードの生誕120周年を祝した特別上映が開催された。 選ばれた作品は『駅馬車』と『静かなる男』の二本。いずれもデジタルリマスターでの上映であったが、おそらく、この二本を立て続けに観た観客の殆どが、その「リマスター」の恩恵を十分に受けたことであろう。 何故なら、その修復の成果たるや、一度このマスターで観たのならば、二度と以前の画質では観られまいと思うほどに素晴らしいものであったからだ。乱暴に言ってしまえば、一度思う存分に贅沢をした者は、容易に過去の貧乏暮らしに戻ることは出来ない、ということと同じ現象が、映画館の暗闇のなかでひっそりと巻き起こっていたのである。
風景、そしてヒロインのドレスのコントラスト
本作『静かなる男』は、あまりにも美しい冒頭を迎える。愚かにも言い切ってしまうなら、この映画はまさに「色彩の映画」と言って差し支えないだろう。スクリーンに色がついていることがあまりにも当たり前の時代に、「色彩の映画だ」と喚いたところで反応は薄いかもしれない。しかし、この映画を観た者は誰でも、作品が纏ってみせる見事なまでの色彩について、口を開かずにはいられないだろう。
それは、現実よりも青い空に、空想上でしか見たことのない白い雲を認め、その下に鮮やかな緑の草を捉えてみせる配色の見事さに始まる。そして真っ赤な髪を振りまくモーリン・オハラに、これぞヒロインと思わせる“決定的な”水色の服を纏わせれば、最早誰もが画面にくぎ付けになることは間違いない。画面のコントラストと言ってしまえば話は早いのかもしれないが、私は「まるで昨日撮ったかのようだ」と思わず唸ってしまった。勿論、この作品が1952年に製作されたものであるということは承知の上である。しかし、それ程までに洗練された画面が目の前に立ち上がってくるのが、この『静かなる男』という映画なのである。
書き割以上に鮮やかな映画の中の世界に、荒くれ者の男ジョン・ウェインが、舞台である土地、イニスフリーに舞い降りる。話の筋だけを語ってしまえば、ジョン・ウェインがモーリン・オハラと恋に落ち、その恋の障壁である彼女の兄と真っ向から文字通り「闘っていく」映画なのであるが、物語をなぞるだけでは何の色気もない。
ドレスで表現するヒロイン像
ここで最も注目したいのは、モーリン・オハラが身に纏う「服の色彩」である。どこまでが脚本上で指示されていたのかは果たして検討がつかないが、紛れもなくジョン・フォードは確信犯的に彼女に着せる服の色によって、この映画の魅力を倍増させている。
“決定的な”水色の服を着て登場したモーリン・オハラを観て、観客は彼女がこの映画のヒロインであることを何の疑いもなく受け容れる。その勝気さを物語る赤い髪とのバランスもさることながら、実に、あまりにも完璧なのである。勿論、そのような感情を抱くのはなにも観客だけでなく、この姿を目にしたジョン・ウェインにとっても同じであり、彼女のことを何も知らない我々は、無責任に「あの服を着たモーリン・オハラが一番美しい」などと吹聴してしまうそうになるのだ。
恐らくディズニー映画によく見られるかと思われるが、しばしばヒロインは、身に纏う服とセットで観客に記憶されている。例えば『白雪姫』、『シンデレラ』、『美女と野獣』。どのヒロインがどんな服を着ているのかすぐに頭に浮かんでくるかと思う。であるとしたら、本作『静かなる男』も同じく、服とヒロインがセットで記憶される映画になるだろうか……。その答えは、半分正しく、半分誤りである。まず、第一にこの作品は「色彩の映画」である。つまり、「服」そのものが鍵であるというよりも、「服の色」にこそ魅力のポイントがあるのだ。
実際にこの映画を観てみればわかることだが、このヒロインはなかなか一筋縄ではいかない。常に動き回っているし、大人しく可愛らしく振舞うなどというサービスを見せはしない。最初に着てみせた服の素晴らしさを我々に思う存分見せた後、彼女は平気で緑や黒の服に着替え、「水色の服って何のことかしら」と言いたげにクルクルと動く。現に、彼女自身が十分に魅力的な女優なのだから、どの服も例外なく似合っているのだが、最初に見た水色の服が“決定的に”素晴らしかったものだから、どうにかしてもう一度あの服を拝みたいと願ってしまうのだ。これは勿論、物語の本筋とは何の関係もないが、寧ろ物語と関係のないからこそ、この映画はここまで豊かなのだ。焦らしに焦らしを重ねた挙句、モーリン・オハラが最終的にどんな色の服を着て登場するのか。是非、今一度画面を見つめながら確認してみるのも面白いのではないだろうか。